軍歴証明の取得⑤ 終りははじまり

都道府県の兵籍窓口から軍歴証明が送られてきたのが

はじめてメールで問い合わせてから2か月が経とうとしていました。


除籍謄本を兵籍窓口へ送付した後も、

資料のコピー代や郵送用の切手代金を

指定の金融機関の窓口で支払わなければならず、

昼休みを利用して銀行へ走ったりと、

何度かやり取りを交わしたあとのことでした。


私が取得した軍歴証明とは、このような資料でした。

  • 陸軍兵籍・・・戦時中に陸軍内地留守担当部隊で作成されたもの
  • 本籍地名簿・・・昭和20年1月1日時点を基準として外地部隊に所属していた者について、本籍地市町村毎に整理され、所属部隊を表す記号、復員や死亡の状況を記載されたもの。
  • 死没者原簿・・・戦没者の死没場所、公報年月日、戦没者の本籍地市郡毎の名簿
  • 戦没者調査票・・・終戦後、戦没者の身分、死因等を調査記録したもの。
  • 資料名票・・・終戦後、未帰還調査部(現在の厚生労働省)で作成されたもの。
  • 履歴調査通報・・・終戦後に留守業務部(現在の厚生労働省)で作成されたもの。
  • 履歴書・・・恩給請求等のため本県で作成したもの。
  • 履歴及び死亡証明書・・・恩給請求時に遺族より提出されたもの。


資料からは、祖父が生前語っていた


「大叔父は徴兵されて一度平壌へ渡った。いよいよ戦局が悪くなり、南方へ行くというので、もう会えないと思い、朝鮮まで会いに行った。」


という話を裏付ける、博多港から平壌へ移動した記録があったり、

とても興味深いものがありました。


しかし、フィリピンの激戦を生き抜き、

終戦後の米軍収容所でなぜ死を迎えなければならなかったのか、

そして、どこに眠っているのかは記載もなく、依然としてわからないままでした。


そして、アメリカ側の情報から作成された

「NPO法人戦没者追悼と平和の会による収容所埋葬者リスト」では

埋葬地がレイテ島もしくはミンダナオ島と2つの記述がありました。


靖国神社の偕行文庫の職員の方によれば、

米軍の捕虜カードは、兵士が持っている身分証をそのままコピーしたものだから

アメリカの情報というのは正しいのだそうですが、

埋葬地に関しては逆にどちらかわからない状態になっていました。


今回送られてきた軍歴証明によれば、

死亡したのがミンダナオ島の米軍捕虜収容所となっており、

レイテ島の文字は一切、出ていませんでした。


なので、レイテ島の収容所で発行されていた曙光新聞の関係者に当たっても

知っている確率は低いのではと思いました。


また、陸軍兵籍の

「特業及特有ノ技能」欄にある「擲」という文字、

投げるという意味だそうですが、これは何を意味するのか?

分からないことも多く、

書籍にもあたってみましたが(【参考書】軍歴証明の見方・読み方・とり方)、

特に成果はありませんでした。

資料の読み解き方については、もう一度、靖国神社の偕行文庫を訪ねることにしました。


そして、陸軍歩兵41連隊について調べると

「南方戦線で何もしていなかったと言われる41連隊だが、実はそうでなかった」

などという記述が見つかり、情報がありそうな気がしました。


調べていくうちに

広島県福山市の市会議員・太田ゆうすけさんが書かれた

陸軍41連隊に関する書籍があることがわかりました。

最近出版されたそうで、その名も『永遠の四一』。

早速購入した分厚い書籍を読むことにしました。


軍歴証明の取得という2か月にわたる作業が終わり、

大叔父へ続く道を、私はまた歩き始めたのでした。


【参考書】永遠の四十一










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