大叔父が所属していた歩兵第41連隊のことを調べていたら、
同じ連隊にいた方の話を聞きとられた方のサイトを見つけました。
お話を聞き取って自分史を作成するお手伝いをされている団体のようです。
さて、お話をされている坂本さんと大叔父はおそらく同い年で
入営したのも同じ12月。
ます福山の連隊へ入営してから、平壌に行き、
そこから釜山港を経てフィリピンに入ったとありますから
大叔父の軍歴とも一致します。
そして、連隊の多くの方がレイテ島で亡くなり、
ミンダナオ島にいたからこそ助かったのだそうです。
ただ、収容所はレイテ島から始まったとありますから、
この連隊は収容所を移動したのでしょう。
米軍の埋葬者リストにも、大叔父の埋葬地が
ミンダナオ島とレイテ島と2つ出てくるので、
移動による情報の錯綜を示唆しているようにも思います。
そして、
「大叔父が終戦後の収容所でなぜ亡くなったのか?」
私が最も理不尽さを感じる部分ですが、
この理由も坂本さんのお話からわかったような気がします。
坂本さんのお話によれば、
収容所では米軍から十分な食料が供給されてはいたものの、
炊事係の日本人の着服により、
すべての人に十分な食事が与えられなかったようです。
炊事係の人が、入れ墨をしているような怖い人たちで、
誰も何も言えない状態。
そして、米軍に訴えても、「十分に与えてある」で終わったのだとか。
大叔父の死亡理由は、栄養失調でした。
心無い同胞によって死を迎えたのでしょうか?
信じたくはないですが、もしそうなら本当に悔しいです。
亡くなった祖父や祖母はこのことを知らなかったと思います。
単純に、戦争中で食べ物がなくて亡くなったと話していましたから。
でも、こういった事実を知るのは、
私だけでよかったです。
大叔父を直接知る人が、
生きて還ってきてほしいと思った人が
このことを知るのは辛すぎます。
時を経たこのタイミングで、
そして、真実に突き当たったのが
私だけでよかったのだと、
不思議な巡り合わせを感じるのでした。
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